赤絵龍鳳凰馬図丸鉢
前回に盆器の作家の木崎万亀、父木崎卜什、永楽和全(12代永楽善五郎)の事を書きました。今回は商人(商社)について書きます。
この盆器の所有者のもとを辿ると行き着くのが、大家家。
石川県加賀市大聖寺瀬越の大家家。
大家 七平 慶応元年(1865)~昭和4年(1929)
大家の2代目七三郎は橋立の寺谷源兵衛のかしきを勤めた後船主として独立。大聖寺川下流の竹の浦は、中世の北前船の拠点であったが、二代目大家七三郎は船主として独立し、巨額の利益と広大な屋敷を残した。
4代七平は、店を会社組織し、早くから汽船を導入するなど、積極的に近代経営に転換し、その繁栄は、終戦まで続いた。
大阪に本拠を置き小樽に倉庫(北海道「小樽市博物館」。その博物館に隣接するように並んでいるのは、大家倉庫-住所 小樽 色内2-3-11加賀市瀬越出身の北前船主、大家七平が築いた倉庫。 )
「北前船について
江戸中期~明治中期
自己資本で買い入れた商品を他の地へ運んで売りさばき、その差額を儲ける買積み商船です。簡単に言うと、船会社と商社を一つにしたようなものです。
北海道からの積荷はとくに高値で売れて、一航海千両の儲けと言われました。春から秋までの一航海で千石船一隻の建造費を稼ぎ出していたのですから、その経営形態はまさに「宝の船」でした。」
この盆器を買出したのが加賀市大聖寺 美術商「山O」と聞いた、裏付けは取っては無いが、九谷美術関係者から聴く、買い出した時には6枚あったそうである。今はあちこちに散らばった。
北前船主は黒船来航の時、今のお金で10億円もの資金を藩に提供したそうです。
推測、江戸末期に変わり朝顔を入れる、盆器の受注を大阪で大家 七平が受けた。たぶん大阪で穐叢園の注文であったろう、湖東で木崎卜什または木崎万亀に焼かせた可能性もある。
黒船来航の時の献上品か?、どこかへの贈答品ではなかったか?
どうしても私には落款が「万」「亀」「園」とは読めない。「叢」「穐」「園」には別の意味があるのでは?
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