赤絵龍鳳凰馬図丸鉢
この盆器は木崎万亀作と解った。湖東焼か九谷焼かの部分を理解するのに3人の作家と商人(商社)が関係すると思われるので、まず3人の作家から書籍の資料からのものを書きます。
盆器作家
木崎万亀(きさきばんき) 天保5年~明治28年(1834~1895)
木崎卜什の長男 山代村生まれ(石川県) 本名清与門、後に清右衛門を襲名、幼い頃より父卜什に陶芸の教えを受けていたが、万延元年(1860)になり大聖寺藩14代藩主前田利鬯(まえだとしか)の命により京の名工永楽和全(12代永楽善五郎)に師事した。文久元年(1861)には法橋に叙せられ、万亀の名を賜り、父と同じく仁和寺宮御室御所の出仕となった。翌文久2年(1862)には、父卜什が自宅内に築いた窯を自宅と共に藩主より賜った山代の春日山に移した。慶応元年(1865)に永楽和全が九谷本窯再興の指導に来藩したとき、弟子の万亀と寝食を共にした。(木崎窯から春日山窯へ)
追記・現在子孫の方は八十代で一人山代に住まいされています。「子供時代には蔵の中には陶器だらけでした」のことでした、その後最後の残された壷は九谷焼美術館に万亀作とされ所蔵されている。
木崎卜什(きざきぼくじゅう) 文化7年~安政元年(1810~1854)
山代村生まれ(石川県) 本名重蔵、のちに木崎家三代清右衛門を襲名、号を卜什
16歳で京都にいぇ狩野派を学び、その後2~3年は有田、唐津で陶画を学ぶ。天保2年、山代に帰郷し自宅庭内に窯を築いて、赤絵細描に金彩を施した手法で製陶した。。これが宮本屋窯の八郎手に影響を与えたと言われる。嘉永元年(1848)には法橋に叙せられ、仁和寺宮御室御所の出仕となった。この頃、彦根藩に招かれ湖東焼の改良に尽力している。湖東焼の「赤水」の裏銘や「法橋卜什」の銘のある赤絵細描の作品が湖東焼としてある。
永楽和全(12代永楽善五郎) 文政6年~明治29年(1823~1896)
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